午前零時十五分、冷え込んだ空気が渋谷駅の井の頭線ホームを突き抜ける。大袈裟になびく髪を一つに纏めながら私は轟音のする方へ意識を向けた。電車は悲鳴のようなブレーキ音を鳴らしながら速度を落としていった。完全に止まった電車の中へ人々の塊が動いていく。私もその流れに乗っていやに眩しい鉄の塊へと吸い込まれていった。
スマホをいじっていると、画面にラインの通知で「ハゲジジィ」と映し出された。私はため息をついて窓の外を見る。家の灯火さえ消えた夜闇はもう見飽きてしまった。若かった頃は更けた夜の全てにいちいち心を動かしていたことを思い出した。
私はラインを開いた。『今日もありがとう、あかりちゃん。おやすみ』だって。律儀な人なんだけど、そのせいで余計キモい。ハゲてるし。そのうえ私の名前は、「あかり」じゃない。まぁ、あの人は店での私しか知らないから「あかり」でいいんだけど。私はそんなことを思いながらラインの返信をした。
家の最寄り駅に着いた。私しか降りてない。私は階段を上って改札を出た。そのまま信号を渡って家に帰れば良いものを、九十度方向転換して右に進む。そのまま駅の裏側に回り込むと、あいつの気配を感じる。あいつは私を見たあと、不貞腐れたように目を伏せた。私はバッグに入れてあったクッキーを取り出した。
「ほら、食べな」
私はぶち模様の胴体を撫でた。ちょっとだけ痩せてる。きっとお腹がすいている。
私は最近、駅の裏に住み着いている犬に餌を与えることが日課となっていた。私がクッキーを差し出すと、犬はそっぽを向いた。変に素直じゃ無いところが可愛らしい。
「ねぇ、きっとおいしいからさ、食べてよ。ハゲジジィも高かったって言ってたし。
……まぁジジィから貰った物なんて食べたくないか……。そういえばさ、そのジジィ、最近育毛剤使い出したんだってぇ!効果無くてほんっと笑える!私笑いこらえるので必死になっちゃったぁ」
犬はそっぽを向いたまま、私の目を見ようとしない。
「もしかしてこのクッキー、加齢臭着いてたりする?そっかー、鼻いいんだよね、犬って。何だっけ。嗅覚一万倍?大変だね、お互い様」
私もクッキーの匂いを嗅いでみる。こころなしか、異臭がする気がした。
「でもさ、せっかくもらったんだから食べてよ。お願い」
すると犬は私のお願いを聞いてくれたのかクッキーを一枚食べてくれた。余ったクッキーはバッグの中に入れた。
「このクッキーばっちぃ……」
私は言った。すると犬はそっぽを向いた。
もしかして怒らせてしまっただろうか。
「……別にあなたに汚い物食べさせようって思って食べさせたわけじゃ無いのよ。分かってくれる?」
そう言って私は犬の体を撫でた。犬はねじっていた首を元に戻し、私をまっすぐ見たあと、体を沈めさせ低くうなった。きっと許してくれたに違いない。
私は機嫌を直してくれた犬の様子を見ながら、バッグからコンビニ弁当を取り出してご飯を食べた。この子と一緒にご飯を食べたら、吐かなくて済む。それでも、ちょっとだけ苦しいけど。
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作者:横川 黄
編集:柴田 慶一朗
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