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執筆者の写真新聞 麻布報道

【文芸】上手に呼吸が出来ないのなら[1]

 いつのまにか、今朝見た夢の風景を忘れている。


 今日のような寝坊した日の朝なんかは特にそうだ。急いで準備している間にさっきまで目の前に広がっていた光景の全てがまるで存在すらしていなかったか(夢の中の景色は確かに存在しないのだが)のように失われていく。そして、ふと「今日の夢はどんなものだったっけ」と思ったときに初めてその喪失に気がつく。そして「確かに夢は見たはずなんだけれど」と、その空っぽの輪郭にすがりつくことしかできなくなっているのだ。


 僕は電車のドアにもたれかかって、前に抱えていたリュックサックをもう一度持ち直した。そして僕は少しでも手を伸ばせば他人の身体に触れてしまいそうな密度の車両の中を見渡して、浅く息を吸った。 息を吸い込むごとに、香水と混ざった他人の呼気が肺の中に流れ込んでくる。それだけで息が苦しい。小さく息を吸っては、大きく吐く。小さく息を吸っては、大きく吐く。たまに大きく息を吸って気分が悪くなる。僕は人が多くいるところだと、上手に呼吸することが出来ない。平日ならば繁華街へと向かう内回りの車両も比較的空いているため、快適に帰ることが出来る。しかしながら土曜日は授業が午前中に終わることもあり、帰宅時の車両内は人々の飛び交う視線が僕の体を粉々に砕いてしまう程に混み合っている。だから土曜日は嫌いだった。そもそも週末に授業があるのも意味がわからない。 僕はため息をついて目をつぶった。そしてそんな土曜日の今日を朝から順に辿っていった。


 まず寝坊をし、母親に叱られながら急いで準備をした。教科書を雑に突っ込んだリュックサックを持って家を出ようとしたときに、母に「お父さんに挨拶していきなさい」と言われた。母に聞こえないくらいの小さな舌打ちをして仏壇の前に立った。立てかけられていた小さな写真には右頬にアザのある父の笑った顔があった。適当に済ませようとしたら、母にまた叱られて、余計出るのが遅れてしまった。


 最寄駅の改札を通って通勤ラッシュで混んでいる電車に飛び乗った。電車が揺れた瞬間にバランスを崩して、他の人の足を踏んでしまったら睨まれた。睨まれた、気がする。いや、睨まれた。

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