【誰にもなれない僕だから−2(前)】麻布卒/京都新聞記者・田中恒輝さん
- 新聞 麻布報道
- 7月9日
- 読了時間: 13分
インタビュー連載企画「誰にもなれない僕だから」第2回は麻布OBで京都府在住の田中恒輝さん。
田中さんは、麻布在学中に自治活動へ参加する傍ら、麻布報道新聞の記者としても活動。卒業後は京都大学文学部へ進学し、考古学を専攻分野として修士課程を修了。2020年に京都新聞へ入社し、現在は京都府南丹市を拠点とした取材を行われています。大学での学び、地方紙の記者として日々感じていることなどを幅広く伺いました。
【電子版にのみ掲載している質問は ◆ を付しています】

--麻布入学のきっかけは。◆
母親が決めたところが大きいです。2007年の運動会が不祥事で中止になり、学校のイベントも満足に見られない状況ではありました。
--麻布時代、特に興味深かった授業などはありますか。
恐らく佐藤俊彦先生が授業をしていた中1の「世界」が印象に残っています。戦国時代とか日本史が好きではあったのですが、日本とは全然違う文化の話をされていて、「世界」は無味乾燥な「地理」の授業ではなくいろんな文化があるのを教えてもらえたのは面白かったです。
また、モスクの見学のような課外授業の設定もあり、社会科はずっと好きだった印象があります。
--なるほど。当時、生徒自治のトピックは。
11年3月、震災後の行事見直しが強く印象に残っています。他には「予算委員会廃止」の発議が出ていたり。当時予算委員ではなかった自分も傍聴しに行った記憶があります。
また、中1の秋の運動会が教員主導になるなど、不祥事が常態化していた時期でもありました。文化祭では豚丼食中毒事件があり、どうやって文化祭・運動会で飲食を提供しようか、というところは懸念事項の1つでした。
--自治活動の中でどういった経験をされていましたか。
中3でサー連に入り、高2で予算事務局員を始めたあたりからずっと2応にいるようになりました。事務局長の雨宮くん、あと議長の中原くんと私の3人で2応にこもって、下校まで毎日同じメンバーで「今後どうするのか」という話をしていたのは貴重な経験だったと思います。
何が得られたかといわれると難しいですが、当時自治改革が叫ばれていた中で結局文実のゲロ鍋事件が起きてしまったり、うまくいかなかった部分も多いです。とにかく考えて動くということをやっていたのだなと、今振り返れば思います。
自治の良さに気づかされたのは、麻布を卒業して大学に入ってからでした。麻布在学中は問題に直面していて「自治があってよかった」といった感情はあまりなかったのですが、大学に入ると、不満があっても唯々諾々と従う人が多いように感じました。出席を取らない授業に出なくてもいいのでは、と自分は思ったりもするのですが、周りは律儀に出ていて。
自分はサークルや文学部の自治会に参加していたのですが、例えば京都大学が会場となるセンター試験の日に、大学側から今日は部室立ち入り禁止、みたいなことを言われたりするんですね。ただ自分の部室は割と会場から離れていて、これはおかしいんじゃないかと思っても、周りは「まあしょうがないよね」みたいな雰囲気で。確かに京大は自由な雰囲気ではありますが、挑戦しない人が増えているみたいです。一回交渉してみたらいいんじゃないか、と思うのは、自分にとってそれが当たり前だった麻布の自治の世界から来ているのではないかと思います。
また、これは新聞記者としての経験になりますが、主に取材している京都の限界集落でも自治の精神について考える機会がありました。というのも、この地域ではいまだに集落の男性全員で会議を開いて、道路の修繕をどうするか、といったインフラ整備などについて、毎月、全会一致になるまで話し合いをしたりしているんです。本来はそれらを管理するのは行政の仕事なので、住民たちが必要に迫られてやっていることではありますが、それでも都会から少しずつ撤廃されている住民の自治コミュニティがこうした集落には残っているということについて、すごく勉強になりました。
--大学進学に当たり、学部はどのように選ばれたのですか。
地歴部などで旅行をしている中で、古い建築物とかが好きだったので、建築とか街並みの歴史をやりたいと思ったのですが、建築の歴史は残念ながら工学部建築学科(理系学部)。当時数学がジツリキ0点とかの世界だった自分は諦めないといけなくて。
もう一つ自分が興味を持っていた都市の歴史は文学部や「総人」総合人間学部でも学べるということがわかりました。数学の配点が比較的少なく、総人よりも幅広く勉強できそうな文学部の方がいいかな、となりました。
--では、なぜ考古学の分野に進まれたのでしょうか。
1回生(1年生)で入学して最初のころは教養の授業を受けるのですが、その中で受けられる歴史の授業って少ないんです。夏休みが長かったり、後期になってからはあまり授業も出なくなったりして、時間のある中で博物館とか遺跡とかを色々回っていました。考古学の分野に興味を持ったのは、京都市の考古資料館で行われていた、京都の平安時代や戦国時代の焼き物が地下から出てきた、という展覧会に惹かれたのがきっかけです。
当時は不勉強だったので、土器には「地味なもの」というイメージがありました。ただ、今の私たちがイメージするような焼き物、つまり青とか緑の焼き物が京都という街の地下から出てくることに対する単純な感動があり、また細かく見ると400年、500年前の人の指の跡が残っていたりすることに対して、「いいなぁ」という。美術的な興味が大きいのですが、今までの建物とかとは少し違って、みずみずしかったり手の跡があったりする焼き物を触りたいな、と思って方針転換を。
最終的に専門にしていた「中世陶磁史」は、戦国から江戸初期の時代、16世紀の後半から大坂の陣が終わって数十年くらいまでの焼き物を扱います。
--この時代のものは、他の時代と違ってどういった特徴があったのでしょうか。
面白いことを聞きますね……。私はこういうのやってるんですよ、

こういった焼き物は中国産のものです。日本文化が江戸時代に盛んになる以前に、根本が形成されたのは大体戦国の時代なんです。世界史では大航海時代とも言えると思いますが、日本は沖縄とか九州を介した外国との交流があったんです。
「倭寇」とかも習ったかと思いますが、どこの国の人かも分からないような人々が勝手に密輸をしまくって、活発にものを動かしていた。そういった交流の中で外国から焼き物が入ってきて、日本の焼き物というのが形成されてきたんですね。
例えば、有田焼は朝鮮から始まったというのはよく知られていますが、他の「日本らしい」と呼ばれているような壺のデザインの源流を辿ると、この時代に中国とか東南アジアから来た美術が元になっていることがあって、そういった交流とかも面白いところです。
--修士課程(大学院)での研究はどういったところが中心になるのでしょうか。
例えば、ある壺の破片と、それに柄が似たお皿の破片が遺跡から出土した時、その模様からこれは何年ごろのものです、と鑑定するやり方の開発が研究の軸です。これによって「ものさし」ができる。この破片が出たらそれらは1600年ごろのものだ、とか。
日本全国、沖縄や中国で出土したものをひたすら見ていって、例えば1580年代はまだ沖縄までしか来ていなかった焼き物が、1600年にはおそらく京都まで入ってきている、とか。あるいは、中国産の壺が日本国内のどこでいつ頃の時代にまねされているのか。有名な清水焼のルーツと考えられる、あるお皿が日本に何年ごろ、どの地域に入ってきたのか、とか。こうした大学院の時の研究を基にした投稿論文が一本掲載されました。
基本的には日本全国の博物館にアポを取って、資料を触りにいくなどして、大量に実物を見る。そうするとだんだん分かってくるんですよね。
研究としても実物に触れるのは大事だし、そもそも400~500年前の人が手作りしたものをまた私が触るというか、普通の博物館だと見るだけですがちゃんとアポを取ってから行けば、重要文化財とかも物によっては触らせてくれるので。純粋に楽しいというところはあります。
--大学には、中高で言うようなクラスはないと思うのですが、勉学の面でほかの学生と交流はあったりするのでしょうか。
1~2回生の間は、交流はないです。「研究配属」がある3回生になっても週1回のゼミで集まるのみ。4回生になってからは、これは私の考古学研究室が恵まれていたのですが、研究室に一人一つ机をもらえて、24時間使えるので基本的にそこで一日中過ごす感じでした。他に何人かそういう人もいる感じで。
考古学って普通縄文時代とか弥生時代をやるので、直接的に近いことを研究している人はいなかったのですが、古墳時代の中国と日本の交流を研究している人は何人もいて。博士課程の人だと結構年齢が上の人がいたり、研究室の本を読みにふらっとOBが来たり。逆にOBに連れられて外の学会に行ったり、時には発掘現場を紹介してもらえたこともありました。
人が少ない研究室だっただけに、セミプロとかプロみたいな先輩にいろんなところを紹介してもらえるというのはありましたね。
--大学生の生活、みたいな話も伺ってみたいです。
1回生の時は北白川、これは大文字の送り火のあたりなのですが、京大まで自転車で10分、歩いて30分くらいのところのワンルームに光熱費込みで5万円くらいで住んでいました。
2回生からは吉田寮に引っ越しました。京大入学時から寮には興味があったのですが、入り方もよくわからず。そんな中、語学を一緒に受けるクラスでたまたま仲良くなった友人が吉田寮に住んでいて、一緒に寮に行って遊んだりしていました。

吉田寮は相部屋で共用スペースも多く、外部の人にもオープンな感じで。ふらっと遊びに行って知らない人と飲む、みたいなこともできるようなところでした。また、中高時代から建物に興味があったこともあって。吉田寮は築100年ですし、一度古民家に住んでみたいという夢を叶えるためでもあります。
吉田寮のお祭り、吉田寮祭には「ヒッチレース」という、財布を持たない状態で日本のどこかに連れていかれて、そこから自力で京都まで帰ってくるという企画があって。自分は東大の赤門に捨てられたんですが(笑)そのあたりのノリがあったというか。面白い世界です。
--寮生活は人生で初めてだと思うのですが、寮での共同生活はいかがでしたか。◆
自分は中国人留学生と一緒に住んでいた時間が長かったのですが、ちょっとしたことを手伝うとお礼に現地のすごく辛い鍋を作ってくれたりとかして。そういうところの交流は面白かったです。
また、共用スペースでドイツ語の勉強とかをしていると、ドイツ文学を研究している大学院生に「お前ドイツ語始めたのか」と声かけられたり、ドイツ文学の話をしてもらえたりしました。
当然部活とか研究室だと一つの世界になってしまうのですが、吉田寮は性的マイノリティーの人とか外国出身の人とかも積極的に受け入れていたので。麻布だと一定以上の収入のある家庭の男性としか出会わないわけですが、寮ではいろんな状況の人と出会って、認識を改めさせられるところはありましたね。
--吉田寮というと大学と対立している印象が強いのですが。
対立がすべて、みたいなところですね。雨漏りしていても補修がサボられてしまうようなところですし。
一番最初は、全体の学生向けの告示で退去を求められたし、寮にも大学職員は来て、退去するように張り紙を貼って帰ったりするし。私が修士1回生の9月30日が退去期限とされていたのですが、退去期限が近付くにつれて当局がどんどん過激化してきて。最初は張り紙だけだったのが、実家に「あなたの息子さんはあと一か月で不法占拠者になります」みたいな文書が送られたりとか。それで親が激怒したりしまして。それだけが理由ではないですが、サークルや研究にも労力を使いたかったので寮を出てしまいました。
大学に何の慈悲もなく寮を追い出された、という感じです。
--サークルでは尺八をされていて、現在も続けられている、と。
麻布の時は地歴部で模型作りをしていたので、何か一芸欲しいなと思い始めて。歴史が好きだったこともあって、日本文化的なサークルを探しました。演奏を聴いて、面白そうだなと思って尺八を始めることになりました。琴と三味線と一緒に活動するサークルです。
サークルとはいっても、私が入ったところは先生に個人レッスンを受けるくらいしっかりしたところだったので、最初に10人くらい入って年によっては半分くらいやめる、といった感じでした。
今もお稽古は続けているのですが、記者の仕事が不定休なので、平日のお稽古に行ける回数は月数回、という状況です。
京大には、部室が24時間使えるという環境があります。(コロナ禍の期間を除く)なので、大学院の時なんかは21時半まで研究室にいて、そこから23時まで部室に練習しにいって、そこからもう一度研究室に戻るか家に帰るか、みたいな生活でした。いい息抜きになっていたと思います。
麻布は下校時間が一応ありますが、部室が24時間使えるとどうしても話が終わらなくて、夜明けまで話続けるとかも。社会人になってからはそういうことはなくなってしまったので、友だちとそういった過ごし方ができたのは何よりよかったのかなと思います。
--先ほど、自治会というお話もありました。
学部ごとに自治会というのがあるのですが、学部によっては消滅してしまっているところもあります。主に、文学部の空き教室をサークルなどに貸し出すのを管理していました。貸し出しをするときに自治会を通す理由としては、例えば政治団体が大学に教室利用を申請しても通るわけがないので、実名を明かさずに借りられるように中間団体を挟んでいる、というのを聞いたことがあります。
また、例えば大学側が「夏休みは工事があるので一切貸し出さない」みたいなことを言ってくることがあるのですが、それに各サークルで抗議していても取り合ってもらえない。ただ自治会ならある程度組織的に動くことができるという点を活かして、土日や放課後の教室利用の権利を守る活動をしていました。
24時間使えて、鍵の管理も学生が行っている部屋が1教室だけありました。そういった部屋のスケジュール管理も自治会の仕事です。地味な仕事ではあるのですが、誰かがやり続けないと貴重な24時間使える空間が潰されてしまうので。
--……ちなみに24時間使える部屋は、誰が何の目的で深夜に借りるのでしょうか。
夜中に演劇をやりたいという嗜好の人が居たり、あとは時間制限なく絵を描いていたい美術部の人とか、夜通しマンガを読んでいたい人とか。たまり場的な役割がありました。
麻布に無くて京大にある言葉の一つに「自主管理」というものがあります。鍵の管理とか予約とかを学校側に管理されず利用者が主体的に行っているところ、例えばそういった部屋だったり、あるいは吉田寮だったり。使い方を自分たちで考えていく、というのは麻布の時にはなかったので、京大に来て面白いなと思ったところです。
--自治会では、他にどういった活動を。
大学当局への抗議文を書いたりしていました。あれもどこまで意味があるのかわからないですが……。
交渉で一番効果があるのは集団で窓口に押し掛けることですね。一人で行っても相手にされないので、学生が5人10人いてやっと対等になる、というイメージを持っています。
文学部自治会ではそういった大人数での行動はなかなか行わず、私一人が文学部教務係長と1対1とかでやっていましたが。吉田(寮)は結構押し掛けていました。大学側も学生に対抗して、窓口の前に壁を立てて、窓口に大人数が入れないようにしたりとか。建物を直せ、とか退去通告を撤回しろ、とか大学側に言いに行くのは基本大人数でした。
人数をかけるという話だと、熊野寮に家宅捜索に入った警察官の立会いに人手が必要だということで、吉田寮の学生からも応援を出していました。最初、家宅捜索の応援って意味が分からなかったですけど……。
--以前、熊野寮の入り口で警察官に検温をする寮生のニュースを見ました。◆
そうそうそう…。ああいうのはマンパワーが必要なので。
あとは、自転車泥棒の捜査であったりとか、文学部の大学生が逮捕されたといったタイミングで大学の教務係に警察官が来たりすることがあって、そうした時に、警察官が別件の捜査をしていないか監視するために立ち会いに行くとか。そういったことも自治会の地道な仕事として行っていました。
[新聞記者になるまで、そして記者としての活動などを伺った後編はこちら]
Comments